『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン』ドルビーシネマ版制作秘話
監督×技術スタッフ 対談インタビュー
さまざまな技術を駆使した新たな映像へのこだわり
『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン』のドルビーシネマ版が、2020年11月13日から全国7カ所で劇場公開されました。日本の新作劇場用アニメとしては初のドルビーシネマ作品となりましたが、一般的な劇場公開映画とはどのように違うのでしょうか?
ドルビーシネマとは、映像の表現である「ドルビービジョン」と、音響の表現である「ドルビーアトモス」を組合せ、ドルビーシネマ用に作られた「特別な劇場」で観ることのできる映画環境のことです。
ハイダイナミックレンジ(HDR)という表現技術によって鮮明で広い色域やコントラストを再現する「ドルビービジョン」と、立体音響技術の「ドルビーアトモス」、黒を基調としスクリーンに余分な光が映り込まないように設計された「シアターデザイン」からなっています。今回のドルビーシネマ版『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン』ではドルビービジョンによって暗部の描写や美しさを際立たせる事が出来ました。
石立太一監督および、ドルビービジョン仕様へのカラーグレーディング※1を担当したキュー・テック(東京都港区)のカラリストである今塚誠さんに、ドルビーシネマ(ドルビービジョン)で実現した作品の表現と、具体的な制作工程について伺いました。
——ドルビーシネマ版制作の経緯を教えてください。
石立:9月18日に劇場公開が始まった後、提案を頂きました。僕自身はドルビーシネマで映画を見たことがなく、画質音質が良くなるだろうと思ってはいましたが、ドルビーシネマで上映するにはそれ用に改めて映像を調整する必要があります。徹底的に作り込んで完成したものに改めて手を入れるのは、本来の意図から外れるのではないかとも感じていました。しかしキュー・テックでテスト映像を見たとき、作り上げた作品の印象そのままの意図を汲んでドルビービジョン化できそうだと思い、進めてもらいました。
——実際の作業はいつごろ始まりましたか?
石立:10月頭から始めました。最初のテストの後、もう少し詰めたものを見たところ、シーンによって映像の印象に差が出ることに気がつきました。制作期間が短かったこともあり、解決が難しいのなら、映像のドルビービジョン化は諦めて、音響のドルビーアトモス版のみでの公開も考えました。しかし、いろいろと工夫してもらうなかで、制作スタッフが納得でき、お客さまにも観てもらえる価値のある仕上がりに達することができました。
——作品の世界観をドルビービジョンでどう表現しようと考えましたか?
石立:この作品は電気がまだ普及していない時代を背景とし、ランプを光源とするシーンも多く、ドルビーシネマ版では、暗部のぼんやりとしていた部分を描写できればと思っていました。作品が完成した段階ですでに全体のバランスを作り込んでいるので、輝度を調整しすぎると全体のバランスを崩しかねないので、派手な画作りではなく、むしろ渋めを狙ってバランスをとった部分も保ちたかったのです。
——ドルビービジョンの完成版を見てどう感じましたか?
石立:暗部の表現力に驚きました。特に背景画はディテールまできちんと描き込んでいるのですが、劇場で見るとつぶれたりぼんやりしたりすることがあります。制作時にモニターで見ているのと同じ感覚で見ることができ、美術背景スタッフが報われると思いました。劇場版アニメで起こりがちな、作画を無理に引き伸ばした感じもありませんでした。 引いた画のなかで、人物の涙など小さく描かれているものが見やすくなっていましたが、逆に見えなくてよいものは印象を整えるために調整してもらいました。
——具体的な作業工程とその特徴は?
今塚:劇場公開した段階の映像規格「HD」から、より高精細な映像規格である「4K」に変換し、その後ドルビーシネマ仕様にするためのドルビービジョン化を行いました。データ容量も大変大きく、計7テラバイトにも及びます。作業では、まずモニターを使ったシミュレーショングレーディング※2を行いました。その後にドルビーシネマの上映環境を再現した特殊なスタジオで実際にスクリーンを観ながら石立監督及びスタッフの方々の立ち会いの元、ファイナルグレーディング※3をしました。作業時間的には、中1日の休みを挟みながらの計2日間でした。
——ドルビービジョン化で目指したことは?
今塚:作業に際しては、監督から2つ注文がありました。1つは『ドルビービジョンの仕様に変換する時、公開中の映像の印象とかけ離れていない、同じ印象値のものにしたい』という注文です。本作はとても映像が美しいので、4Kらしさを出すための過剰な画像調整は行わず、できる限りクリアなナチュラルさを目指しました。変換にはキュー・テックの高画質変換技術を使用し、専門技師により、キャラクターの主線周りに出るわずかな圧縮ノイズと色ズレのみを改善させて、処理状態や描画の変化がないことを確認しながら追い込んでもらいました。しかし、今作は主線に色を持つ独特な手法で描かれていますので、色情報を残しつつナチュラルに変換することが重要でした。
——「公開中の映像とできる限り同じものを」というオーダーでしたが、ドルビービジョンの大きな特徴でもある「鮮明で広い色域やコントラストを再現すること」についてはどのように考えましたか?
今塚:監督からはもう1つ『表現の全体のバランスを崩さずに』という依頼がありました。変にドルビービジョンの効果を意識しすぎると崩れてしまうので、ここぞというところでその効果を出せればというお話でした。ドルビービジョンらしさを出す部分については指示をもらっており、その1つが「シーン終わりの余韻の部分」でした。ここを処理することで、作品のバランスを保ったままドルビービジョンらしさを出すことができ、奥行き感と没入感を出せるようになりました。改めて監督の感覚の鋭さに驚きました。
——シミュレーショングレーディングで使用した機材で工夫したところは?
今塚:公開中の映像と印象を同じにするため、非常に高精細な映像を映すことのできる液晶モニターを使用しました。余計な光を拾わない反射の少ないパネルが使用されているものです。監督は暗部の再現性を求めておりましたので、このパネルが使用されたモニターなら、ドルビービジョンの印象と変わらず見られるものだと判断しました。
——ドルビービジョン化で苦労した点は?
今塚:暗部の調整には気を遣いました。ドルビービジョンは独特の黒締まりによるクリア感がありますから、暗い中でもキャラクターの主線がはっきり見えてきます。ファイナルグレーディングの1日目、監督からこれを細く柔らかくしたいという宿題をいただきましたので解決法を考えました。
——どのような方法で解決しましたか?
今塚:主線に色が入っている今作はいわば『あいまいさ』が重要です。線と暗部の陰影が調和するように、線に新たなフィルター処理を加えることで柔らかさを表現しました。この作品は本当に描画が美しく、なんとしても印象を壊さずに見せたいと思っていました。実は、単純に暗部を少し明るく調整すれば柔らかさは表現できるのですが、それではドルビービジョンの黒の良さを活かすことができないのです。いろいろ解決法をご提案しました結果、最後に監督からオーケーが出て本当にホッとしました。
石立:アニメは境界線を区切りそれを動かして見せるものであり、絵筆で描かれた背景と線で描かれた動かすモチーフ(キャラクター)という、表現が異なるものを重ねて1つの空間に見せています。この作品ではその境界線を溶かし、1つの空間として馴染ませたいという思いからキャラクターの主線に色を入れるなどしています。ドルビービジョンに変換した際、線がはっきりしてしまい、近づけようとしていた『距離感』が離れてしまいかねなかったので、むちゃくちゃな相談だとはわかっていましたが投げかけました。
──それでは、最後にこのドルビーシネマ版制作への思いをお聞かせください。
石立:劇場用アニメーションを最初からドルビーシネマに公開できる解像度で制作するのは現段階では難しいです。そう考えると、制作する映像の印象値を保ちながらドルビーシネマ仕様に変換する手法は、今後より求められていくのではないかと思います。
劇場作品はお客様にダイレクトに届けられる醍醐味があります。ドルビーシネマ版は観ていただいた皆様から多数良い感想を頂きました。これが実現できて皆さんに感謝しています。
当記事の原文は『映像新聞』2020年12月21日号・12月28日号に掲載されています。
http://www.eizoshimbun.com/